みゃりねの心の中

みゃりねがおもったことをかきます

生について。天上の世界から。

惜しかった。何もかも惜しかった。あと少しであった。もう少しで何かが掴めそうだったのに、それがどうしてもわからなかった。ただそれだけである。それなのに、この悔しさは何だろう。まるで「ハムレット」のオフィーリアだなと私は思った。
何というか……私にはそういうところがあるのだ。自分の書いたものに対して、満足できない部分があると、それを何とかしようとして、結局はうまくいかず、その繰り返しの中で自分を見失ってしまうようなところが……。もちろんそれは、他の人から見ての話であって、本人としては、一応それなりに納得しているのだが……。
そんなことを思いながら、私は机に広げた原稿用紙を眺めていた。書き直そうとしていた文章ではない。小説を書いているわけでもない。仕事に関することは何も書いていなかった。本当に書くことがないのだから仕方がない。
私はぼんやりとした頭のまま煙草を取り出して火をつけた。そしてまた煙とともにため息を吐き出した。その時ふと思った。もし私が今死んだらどうなるだろうと。おそらく新聞にも載らないし、雑誌の編集担当者も私の葬式に来てくれないに違いない。つまり、誰も私の死に気づかないということになる。それでいいのか? よくはない。でも今の世の中、ほとんどの人が他人に関心を持たない時代になってしまったようだから……。
しかし、それでもやはり寂しいと思う。誰かに気づいてもらいたいと思っている。こんなことを考えている自分に気づいた時、私は愕然となった。いつの間にか自分はそんなふうになっていたことに驚いた。
人間とは不思議なものである。
人はなぜ生きるのか。
その答えを知っている人はほとんどいないのではないか。私自身、自分が生きている理由を考えたことがあるけれど、今のところはっきりとしたものを見つけることができない。ただ漠然と生きてるだけなのだ。生きていればいつか死ぬ。死ねば終わる。それは確かだが、その先がわからない。人生の意味なんて考えたところで無駄なことかもしれない。
しかし、考えてみることは必要だと思う。意味もなく存在しているよりは、意味があると考えたほうが楽しいではないか。たとえそれが錯覚や妄想に近いものであったとしても、そう思っている間は幸せなのである。
私にとって、生きているということは苦痛を伴う作業であり、決して愉快なものではなさそうだ。だが、その意味について考える作業はけっこう面白い。
例えば、「生」という言葉の持つイメージについて考えてみると、「生命のある状態」「命あるもの」「生命力の象徴」などがあげられるだろう。他にもいろいろあるが、それらはすべて「生」が持つプラスのイメージだと言える。それに対して「死」はマイナスのイメージを持つ言葉だ。不吉だとか恐ろしいものだとか、ネガティブな印象の言葉ばかりが並ぶ。確かに「死」は不可逆的な現象なので、一度迎えると取り返しがきかない。だからこそ人々は恐れおののくのであろう。
では、どうして「死」を恐れなければならないのか。誰もが「死」を迎えることになるのに、何故そこまで恐れる必要があるのか。